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前世のひとつ



 今では前世といっていいほど昔のことだけど、僕はシステムエンジニアとして悪魔に魂を売り渡していて、血眼になってパソコンの画面を見つめていた。納期に次ぐ納期で、へたしたら納期の前に突発的に納期が割り込んでくる。笑うしかない。山の上に大岩を運び上げては重力で転がり落ちるのを眺めるようなもので、無力感にとらわれる。徒労、虚しさ、この世のはかなさ。みんな軽い鬱状態におちいっていたし、ときに自殺者が出た。  その暗い日々に私の心を支えていたのはアルコールで、仕事のあとの一杯への渇望が私をこの世につなぎとめていた。詩とか音楽とか、何か美しいものがその役目を果たしたと言えればいいのだが。しかし私がしがみついていたのは汚物でした。全身の細胞がアルコールを求める。そしてそれを迎え入れる歓喜の一瞬。こういう賛歌は詳しく言ってもしょうがない。中毒者がいたという事実をご理解いただければよい。  何かの奴隷になるというのは意志を放棄するということで、この場合、かわって玉座に君臨するのはアルコールでありその化学反応である。彼は巧妙なやり方で肉体を支配する。まず標的になるのは品位であり、換言すると、アルコールのためなら平気で嘘をつく、親であれ子どもであれ自分自身であれ平気で欺くという卑劣さである。世界でいちばん信用ならない人間と化してしまう。玉座におられるミスターAのためならあらゆる機略や努力をいとわない。  たとえばこの人物に、どうして職場のデスクの引き出しにジャック・ダニエルズのボトルを隠しているのかと詰問してみよう。 「薬なんです」と彼は答えるだろう。「これがないと喘息の発作が出てしまうんです」  きみが咳をしているのは見たことがないぞ。 「夜にならないと出ないんです。だから日が暮れるまでは飲みません」  まだ外は明るいぞ。 「もう5時半ですから。冬場の日没時刻を目安にしています」  体に気を付けるんだぞ。 「お心遣いに感謝いたします」  驚嘆すべきは、自分でもこういう屁理屈を信じているということで、もはやミスターAの傀儡でしかない。アルコールめざして泳いでいく単細胞生物みたいなものだ。ある意味、その純粋さは称賛に値するし、学術的な感興さえ呼び起こす。ためしに彼に50mlのキャンティ・ワインを差し出してみよう。鼻の穴がひくひく動く。目が釘付けになっている。その知力のすべてを用いて次の処理を行う。飲みたい、飲みたい、でも飲めと言われるまで待て。  飲むのは質問に答えてからだ。いいね? 「はい」と生物は言う。  きみが好きなものは何かな。 「いちご……、ショートケーキ……、メロンパン……」  我々が聞きたいのは真実だ。 「アルコール全般」  よろしい。きみはこないだあやうく死にかけたね。覚えているかな。 「はい。酔っぱらって駅のホームを歩いていて、電車がすぐそばを通過していて、なんだか引き込まれそうで」  どうして助かったのかな。 「行っちゃったからです。最後尾の車両が頬をかすめていきました」  駅員が怒鳴っていたのは覚えているかな。 「覚えていません」  自分が阿呆だと思わないかね? 「いつもそう感じます」  よろしい。飲みたまえ。


注:ぜんぶ嘘です。最初から最後まで。何から何まで。

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