ヨガの目的は心を鎮めることです。心とは「木から木へ飛び移る猿」です。僕はというと、木から落っこちて頭を打って身もだえする猿です。えらそうなことは何も言えません。 しかしこの猿は猿なりに考えていることがあります。木から落ちたときは痛かったけど、地面をごろごろ転げまわっているとそれも感じなくなり、地面はひんやりして気持ちいいし、下から見上げる木の梢は毛細血管みたいできれいだ。その微細な紋様は意味深長な問いかけをしているように思える。生命の樹、という言葉が脳裏にひらめき、生命だよこれは、と呟くと、あらゆる枝がどくんどくんと脈打つ。単に風が吹いただけかもしれない。 猿は物思いに耽る。ここで生きていくには、何かしらの要素にしがみつかなければならない。ほうっておくと木から木へ飛び移る猿に戻ってしまう。本能がそれを求めている。こうしているあいだにも、体が引っぺがされてするすると木に登っちゃいそうだ。そしたら頭がぱちんと弾けて木から木へ飛び移り、木からぶら下がってオシッコしてぎゃあぎゃあ喚いているのだろう。恥ずべき振る舞いだ。それはいやだ。 猿の様子がおかしい。ぶるぶる震えている。目は血走っているし、歯ががたがた鳴っている。両手で草を握りしめ、歯を食いしばり、なんとか落ち着きを取り戻す。この正気に返った一瞬、わたしは真剣に論理的に絶望している。なぜならわたしという存在は実体を持たず、どこまでも阿呆な猿にどこまでも依存しているからだ。阿呆な猿の気まぐれで、わたしは虚無のなかへと失われてしまう。 そして天使が猿のもとへやってくる。それはバナナのかたちをしている。黄色く熟れた、つやつや光るバナナが葉のあいだに見え隠れしてわらっている。バナナ、バナナ、バナナア。 猿は涙を流す。じきにわたしは正気を失うだろう。釣り針が仕掛けられていようがバナナに食らいつくだろう。しかしそれまでは、わたしがわたしでいられることに感謝していたい。ここは生命の森だ。わたしは生命に含まれていて、生命であり、わたしから生命の樹が育つ。自分自身が無限であると感じる。何も欲しくはないし、もはや失うことを恐れない。執着しない。これは美点だ。いずれそのときが来たら、この肉体も躊躇なく手放そう。 甘い芳香が鼻腔をくすぐる。口元がにやけてバナナみたいな三日月型になる。よだれが垂れる。