子ども心に『浦島太郎』には不条理なものを感じた。亀を助けたのに、どうして不幸のどん底に叩き落とされなきゃいけないんだろう。助けた亀は甘い罠への片道切符だし、竜宮城は薬物のもたらす幻覚みたいなもので、夢から醒めると老人になっている。たしか最後は入水自殺したんじゃなかったか。 そこで、太郎を助けたいと思う。こんなふうなお話であってもいいのではなかろうか。
太郎は言いました。 「僕は故郷へ帰りたいのです」 「いいではありませんか」と乙姫は言いました。 「お母さんが心配です。僕がうちを出たとき、お母さんはおなかを空かせていました」 「おそらく」と乙姫は言いました。「おそらく、お母さんはもうおなかを空かせてはいません」 太郎は乙姫を見つめます。 「それはどういう意味でしょう」 乙姫は太郎に酒を飲ませます。その酒には忘却の効果が秘められています。 「そういえば」と太郎は言いました。「僕にはやることがたくさんあった気がします。舟の修繕とか畑の手入れとか、水汲みとか鳥の巣箱の改良とか」 乙姫は酒を飲ませます。正直なところ、面倒くさくなってきているのですが。この男いつまでいるんだろう。亀さん助けたくらいで調子に乗りやがって。 「子猫がにゃあにゃあ鳴いている」 退屈な男。毒を盛って殺してやろうか。退屈な男は死ね。それが彼女の人生哲学でした。これまで何人の男を自殺に追い込んだことか。彼女のいちばんの気晴らしだったかもしれません。竜宮城には娯楽はあまりないのです。 彼女はにやりと微笑みます。冷たい笑みでした。まわりの気温が5℃くらい下がりました。 「太郎さん」彼女は甘い声でささやきます。そこには魂の震えさえ聴き取れます。「太郎さん、よく聞いてくださいね。いつかあなたは生まれた場所へ帰るでしょう。そしてありのままの世界を眺めるでしょう。それは無慈悲で、残酷で、裏切りに満ちているかもしれません。誰だって取るに足らない。あなたも必要とはされない。人間の命など木の葉よりも軽い。強くならなければいけません。頼りになるのは自分自身です。本当のあなたと向き合って、確信を得ねばならない。それでも生きねばならないと。わたしのことを覚えていてくださいね。わたしがあなたを思う気持ちは夢じゃない。これを差し上げます。小さな箱ですが、わたしからの愛のしるしが入っています」