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録音は何かを壊さずにいられない

  • 2018年3月3日
  • 読了時間: 3分

更新日:2019年12月23日


 いい音楽なら何でも好きで、クラシックでもいいしジャズでもいい。ポップソングでもいい。しかしヒットチャートには偏見を抱いており、そんなものから何光年も離れたところで曲を探している。最近のお気に入りはブラームスのピアノコンチェルト第2番で、YouTubeなんかでLP初期の古い録音をほじくりだしては片っ端から聴いている。古ければ古いほどいいというわけではないのだろうが、僕の中では新しい録音なんて底が浅い。偏見ですね。しかし音楽には偏愛がものをいう。というわけでトスカニーニ&ホロヴィッツやフルトヴェングラー&フィッシャーなんかに耳を傾け、しくしくと興奮し、魂のナイーヴな部分を慰撫されているのである。純粋に個人的な快楽。いいじゃないですか。音楽とはそういうものだ。  なぜにティラノサウルスやトリケラトプスといった大時代的な録音を好むのかというと、つらつらと考えるに、僕には懐古趣味的なところがあり、セピア色に染まった世界に愛着を抱いてしまう。もちろん実際にひと昔前に身を置いたら、セピアが薔薇色に変わるかというと、そうではなく、貧困や差別や戦乱疾病飢饉が蔓延していたのだろうし、今より厳しい時代だったのは間違いない。僕なんて10代後半あたりで命を落としていたと思われる。しかし、こと音楽に関していえば、浪漫主義的気風というか、破滅を厭わぬ心意気というか、狂気というか、個性の自由な飛翔、神の領域への跳躍、冒涜的なエゴ、神話的な勇敢さ。よくこれほどの名演が録音され残っているものだと思う。これこそ奇跡の具現化ではなかろうか。何度でも再生されうる。半世紀が経過してもなお輝きが減じない。人間の成したわざが永遠の生命を持つにいたる。  ヨガはどうなんだろう。あまた有り余るレッスン・ビデオの質。程度の低いものを弁護するわけじゃないけど、思うに、映像にしたら必ず何かが失われる。面と向かってやらなきゃ物足らない。最高の先生であっても、生の声が届く範囲にいなきゃ、あるいは手で修正してもらえる空間にいないと、魔力が消えるというか。人気の先生のレッスンをオンラインで受けたとしても、緊張感・覇気・集中力なんかが欠落しちゃいますからね。ビデオなんてコピーにコピーを重ねた絵画みたいなものに過ぎない。実際にその場でやったほうが遥かにいい。  だからこそ、僕みたいな若輩者がしゃしゃり出る幕もあるのだと思う。単にポーズを連続させるだけじゃない。その流れに生命を吹き込まないといけない。生だからこそ伝えられるものがある。面と向かいあい、同じ磁場を共有するというか。一回限りの即興演奏。再現は不可能。その場限りの共鳴。会心のパフォーマンスをしたとしても、あるいは史上最悪のレッスンをしたとしても、空に消えて失われてしまう。それでいいと思う。だからこそ新しいものをやる価値がある。  これに関して思い出すのはスヴャトスラフ・リヒテルの言葉で、絶滅した巨人族の最後の一人みたいなピアニストだったのだけど、彼いわく、「録音は何かを壊さずにいられない」。音楽もそうだったのかな。ライブじゃなきゃ伝わらないものがある。リヒテル&コンドラシンのブラームス2番なんかは、録音であっても息をのむほど美しいわけだけど。  別にヨガに甘いわけじゃないし、ましてや自らの落ち度を言い訳するわけじゃないけど、ヨガには音楽よりも壊れやすいものがある。一方的に伝えるだけじゃない。相互作用で音符の配列まで変わる。それはたとえばこうして不特定多数に向かって語りかけるのと、実際に相手の目を見て話すことの違いに似ていて、親密さというか、思いやりというか。もし多少なりとも僕に興味を抱いてくれるなら、一度来ていただけたらと思います。長々と失礼いたしました。教室で会いましょう。


 
 
 

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