しばし現実逃避。 酒? 二日酔いがある。 旅行? たぶん1年くらい帰ってこないね。 猫? 相手にしてくれない。 本は悪くない。 音楽もすこぶるいい。 ヨガ。僕がそれを言っても当たり前すぎてつまらない。蘊蓄を傾けることもできるのだろうけど、そういう気分じゃないんだな。 ではどういう気分かというと、クヨーナーラ。石垣方言で「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」という意味らしい。Hi、みたいな感じでいつでも使える。 クヨーナーラ? クヨーナーラ。
個人的にはメキシコの地名みたいに響く。荒涼とした砂漠の只中にある小さな村だ。村というか集落に近い。石ころだらけのメインストリートが中央にのびており、それに沿って今にも崩れそうな家屋が2,30軒立ち並んでいる。ハエがうなり、野良犬が寝そべり、太陽は容赦なく照りつける。男たちは昼間からビールを飲み、げっぷして太鼓腹をたたく。女たちは炭酸飲料を飲み、げっぷして、世間話に興じる。彼らはみんな太ってる。誰も働いていない。村に産業なんてないのだ。ではどうやって生計を立てているかというと、娘や息子が仕送りしてくれるのである。年頃になると子どもたちはみんな「シティ」へ行かされる。「シティ」はいいところだ。誰だって働き口を見つける。そして帰ってこなくなる。いつも「親の恩だけは忘れるな」と念を押すのだが、送金してこない親不孝者が大勢いる。まあしょうがないか。それも人生だ。うちにはまだマリアもベスもサンドロもいる。ミゲルは怠け者だからあてにならないが、ごくつぶしが一匹消えたところで痛くも痒くもない。むしろ胃の数がひとつ減って助かる。やつときたら働かないくせに大食いなのだ。一日にトルティーヤを50枚くらい食べる。さすがに頭に来てトルティーヤに殺虫剤を混ぜてやったが、「かあちゃんサルサソースくれ」って言っただけだった。あと1ヵ月の辛抱だよ。中学校出たら胸張って送り出してやれる。あんたんとこにはロサリートにエレナにボルヘがいるもんね。あいつらはカタイよね。見てたらわかるさ。有望株ってやつだね。もし不安ならもっと産んどきゃいいよ。あんたまだ若いんだからさ。あと5人くらいはいけるでしょ。おたくんとこはさ、もうチアゴしかいなくなっちまうね。どうなってんのさ。へえ、いま仕込み中? そういやこないだうちのカマロネスが生意気なことぬかしやがってさ。クヨーナーラに残りたいなんて言うんだよ。100年早いっての。 カマロネス。
「シティに行けば本があるよ。あんた本ばっか読んでんじゃない」 「そういや昨日読んでた本にさ、シティの武装強盗の話がのってたね。たまたま居合わせた客にさ、『見たな?』って訊くんだ。『見てません』ってこたえると銃で撃たれる。『見てました』って正直に言ってもやっぱり撃たれるんだけどね。おいらそんなとこに行くのやだよ」 「きれいな女の子がいっぱいいるよ。あんたそいつらと仲良くなりたくないのかい」 「おいらみたいな田舎者は相手にされないよ。金目当ての女がからんでくるだけだ。でもさ、免疫があるんだよな。誰かさんのおかげでさ」 「金なんてシティに行けばうなるほど稼げるよ」 「やっぱクヨナーラでしょ。最高だよ。何もしなくていいんだもん」 「もうこの村は定員オーバーなんだよ」 「嘘こくんでねえー」 「そうそう、シティに行けばさ、あんたの本当のお母さんに会えるよ」 「なんの話してんだよ」 「あんた産まれて2日か3日でさ、この村に置き去りにされちゃってねえ」 「はあ?」 「そのお母さんは言うんだよ。この子が15になったら真実を告げてください。この子はさる芸術家の隠し子なのです。わけあって存在は公にできません。しかしこの子には熱い血が流れています。いずれ偉業を成し、この国の歴史に名を残すでしょう」 「……ほんとかよ」 「シティに行きゃわかるさ。おのずと道はひらかれるだろ。あんたの血がそれを求めるんだよ。でも先立つものは金だからね。まずは仕事みつけて稼がなきゃね。靴磨きでも教会の墓掘りでも何でもいいからさ。大丈夫、行きゃなんとかなるさ。より好みすんじゃないよ。育ての親と神様に感謝して働くべきだ。いい空気を胸いっぱい吸ってさ。なにしろシティは空気がいいらしいね。盆地にできた街だろ。だから化学物質が堆積するらしいのさ。空気中にいっぱいクスリが浮かんでるようなもんだ。寝たり食ったりほっつき歩いたりしているだけで、あんたの心と体は翼を得て天に向かってはばたいていく」 「すげえ。すげえよ」