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台風の夜、屍



 台風の夜、みなさん何をしていたのだろう。僕は阿呆なので外をふらついて全身ずぶ濡れになり、傘とサンダルをあの世送りにし、さすがに反省する。うちに帰ってヘルマン・ヘッセを読み、心を清め、心を清めることに飽きると映画を観る。ウォルト・ディズニーの『ファンタジア』。これなら何度観てもいい。毎回眠くなるのだが。果たしてエンディング・ロールまでたどり着いたことがあったかどうか。「くるみ割り人形」のあたりはいいのだけど、ミッキーのいたずらのくだりで心拍数がやんわりと低下し、恐竜が闊歩しだすとまぶたが異様に重くなり、「田園」のケンタウロスは夢のなかで見ている。目を開けているのか閉じているのか定かではない。まぶたの裏に映像が映っている。ケンタウロスが羊の群れみたいに行進している。ますます夢のなかに埋没する。ケンタウロスは優しい顔をしてどこかへ去ってしまい、意識は広大無辺にひろがり、夜の暗い池がゆらめき、意志はとっくに潰えていて、かすかに残るのは、だめ、寝ちゃいそう、という思い。

 レッスンの最後、いつも横になって完全に体から力を抜くポーズをやるのだけど、みなさん何を考えているのだろう。あれは「Savasana」といって、直訳すると「屍のポーズ」となります。簡単そうに見えますが、最も難しいポーズの一つとされていて、熟練のヨギでさえ究めようとすれば限度がない。目を閉じ、明晰な意識を保ちつつ、死を経験する。屍のように身動きせず、肉体を消失させ、魂だけの状態になり、すべてを俯瞰して見下ろす。それまでの運動・呼吸・集中・祈りは「屍」へ至る踏み石に過ぎない。寝てはいけません。まぶたを開けてもいけません。自覚的に弛緩し、肉体を消失させ、内面の奥底へ沈降していくのです。何かを考えるというよりは、何も考えない状態をつくりだす。思考が溢れるにまかせる。それらを追うのではなく、流れ去るのを見守る。水脈が尽きたら、やがては無の境地に至るかもしれない。そこでは過去も未来もなく、自我さえなく、あるのは永遠の現在のみで、普遍的な存在へ近接しているのかもしれない。

 もちろんこのど阿呆は、『ファンタジア』さえろくに観ることができず、完全に気が緩み、茹ですぎたスパゲティのように吐息がだらしなくのびており、つまり完璧に寝ている。


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