最近、夜の漁港で泳ぐのが趣味となっている。午後10時くらい。その時間だと漁船の出入りもない。誰もいないし、とても静か。さざ波が規則的に打ち寄せる。係留された船が眠っているかのように揺れている。月の光が波間に踊り、水面下を稚魚の群れが動き回る。
そっと海へ入る。水音があたりに響く。水をかきわけ、くるりと海のなかへ潜り、腕が疲れたら体の力を抜いて波間に漂う。星空を眺めて息を整える。温かい海水がもたらす浮力感。羊水みたいな。心安らぐ。浄化される。このまま眠りに落ちてもいいくらい。心のなかの尖ったものが消失する。残るのは現在を肯定する気持ちだけ。おさかなさんの気持ち。石垣のおさかなさんはぬるい水に浸かってぬるい思いに耽り、さかなどうしの噂話なんかをぬるぬるしあう。最近妙なやつが出没するらしい。そいつは午後10時にやってきて、妙な泳ぎ方をして、妙な歌を唄うらしい。なにやらフジツボに関する歌で、フジツボは漁船の底にへばりつき、ふじふじと成長し、ふじの夜が来たら噴火する。その夜はふじにとって祭典であり、レモンの皮の細かなつぶつぶみたいに目立たないもので、つまり限りなく私的な儀式なのである。
「ねーねー、ちょっと聞いてよねえ」そいつは唄いだす。「ねーねーのおなかにはおへそのかわりにフジツボがある。ねーねーのおなかは硬すぎる。だから張りつきたくなるんだよねえ。うちらはねーねーのおなかにくっついてこっそりひっそり養分をもらい、ついでにねーねーのお肌を柔らかくしてあげる。ねーねー何も感じない? じゃあさ、ねーねーのおなかに穴をあけ、ねーねーのおなかに外の世界を見せてあげる。ねーねーどうだよこれ、夜の海ってあったかいよねえ。だめ? ねーねーってばむすっとしてばかり。そんなんじゃ沈没しても何も感じない。そんなねーねーのためにこっそりひっそり面白いこと教えたげるね。ねーねーってばどこを向いてもへさきしかないじゃん。うちらってばどこを向いても上しかない、ってか上しか向けないんだよねえ。それって悲しくない? つまんなくない? だからこっそりひっそりいじけちゃうんだよねえ。いじけるついでにぽっぽぽっぽと卵を吐く。無数の小さな卵は煙みたいに海中を漂う。それらは本能が導くままねーねーのおなかにぴたりと張りついて、潮が満ちるたびに成長し、満月の夜にみんなで明るく楽しくふじふじと花ひらく。ねーねーどうだよこれ。こっそりひっそり愉快な気持ちになったかな。世界にふじつぼが満ちますように」