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負けてる側に加担する


 豊年祭を見に行く。まさに偶然。ひょんなことから。知り合いが「庭に車とめるけどすまん」なんて言うもので。やつらは僕の返事も待たずに勝手に車をとめて行ってしまう。じゃあ僕も行くかとうちを出る。自宅から2、3分歩いたところに会場があって、というか知らなかったのだけど、ひとがたくさんいてなんだなんだとふらふらと歩いていくと、弁慶と牛若丸(?)が戦っており、続いて綱引きをやるらしい。あたりは立錐の余地もないほどの人だかりで、暑いし、酔っ払いが多いし、前も後ろもくさいおっちゃんで、例によって人混みに嫌気がさし、ひたすら帰るタイミングをうかがう。やがて綱引きが始まる。

 団体競技に参加するなどまっぴらだと思っていた。自分は一匹狼のタイプだし、組織の一員になるよりは傍観者でいるのが性に合っていると。しかし一方の敗色が濃厚になる。その瞬間、負けてる側に加担したいと感じた。これは本能的なもので、勝者を簡単に勝たせてしまったら面白くない。おそらくは自分が加担しても流れを変えることはあるまい。焼け石に水で、ずるずると引っ張られて負けてしまうのだろう。結果的に自分もまた敗者の烙印を押されることになる。それで構わない。単に勝利を祝うよりは、敗北を共有するほうがいい。そのほうが学ぶものが多い。人間としての深みを増すことができる。負けることで、何らかの教訓を得るのだと思う。教訓がクリアになるというか。

 たしか村上春樹さんも似たようなことを語っていらした。「壁に卵を投げつける」という文章だったかな。パレスチナ問題に関して。良いか悪いかは別にして、不利な側に共感するし、応援してしまうと。理性の問題ではなく、感情や本能がそうさせる。壁と、あたって砕ける卵があるならば、自分は卵の側に立つ。

 一人、つらつらと物思いに沈む。みなさん賑やか。お祭り気分を楽しんでおられる。これも敗色濃厚な戦いなのかな。みなさんは勝者だ。しかし敗北の味は知るまい。孤独感。自責の念、自虐への傾倒。それでも拠りどころは自分の中にしかない。だからこそヨガが肌に合うのだろう。孤高の美学。壁であるよりは卵であろうとする。壊れやすいし不完全だけど、成長の余地がある。常に強靭さが試される。退屈や惰性とは無縁でいられる。壁になっちゃったらつまらない。そんなのレールの終点じゃないか。


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