BEGINが新栄公園で歌っていた。コピーバンドじゃなければ本物なのだろう。彼らの場合、そこらのおっちゃんが趣味でやっているようなノリがあるのだが、たぶん本物で間違いあるまい。石垣市が主催しているイベントだし、あれだけたくさんのお客さんがいて、けっこう盛り上がっていらしたし。いーやーさーさー。 しかしあの場にいた人のなかでラリー・バロウズのことを考えていた人間はいただろうか。たぶん僕だけだろう。僕はああいう場所にいたら心は10億光年かなたをさまよってしまう。群衆の一部にはどうしてもなれない。もしかしたら病気なのかもしれない。あるいはみなさんも思い思いの方向へと10億光年さまよっているのだろうか。尋ねてみたことがないからわからないけど。どうなんだろう、いつも聞きそびれてしまう。ああいう場所で盛り上がっているみなさんに、「今なにを考えていますか」なんて話しかけたら迷惑なんだろうし。「うるせえ」で片付けられるのがおちだ。僕だってラリー・バロウズのことを思いめぐらせているときはそっとしておいてほしい。すごくシリアスで、私的なテーマなのである。 ラリー・バロウズ。ベトナム戦争に従軍した戦争写真家で、狂気に満ちた状況のなか美しい写真を撮り、高潔な人格を失わなかった。同行の兵士たちが窮地に陥ったときは、率先して負傷者の救出にあたった。バロウズは言う。「心に引っかかるものが、きっとあるはずだ。もし、そうであれば、見過ごしてはいけない。このような状況に直面したとき、ただ金のために動く人間に成り下がってはダメなんだ。そんな奴はカメラマンじゃない」 ときどき、ラリー・バロウズならどうしただろうと考える。たとえばここにいたら。BEGINのコンサート。ビール飲んでくつろいでいたのかもしれない。ただ、何かが物足りないと感じていたかもしれない。真剣さであったり、魂を削られるような緊張感であったり。群衆から一人浮いていて、居心地の悪い思いをしていたのかもしれない。 ラリー・バロウズならどうしたろう。たとえばヨガ。娯楽性も大事だと思う。それに加えて、極北の高峰のような峻厳さとか、真摯な祈りがあればと思うのだけど。単なる運動に堕してしまったらつまらない。もちろん、まだまだ自分が望むヨガには達していないけど。もっとうまく、といつも思う。